熱帯魚

今日、秋葉原のつけ麺屋で飲んだ水は冷たくておいしかったし、おいしい水ですって書いてあったの嘘じゃないんだなって感心したけど、横浜のカフェで出されたお冷は変な後味がして横浜市の水道水かどうかも疑うレベルで不味かった。

 

けどそんなクソ不味い水を飲みながら聞いた友だちの話は、その友だちから聞く話の中で3本の指に入るくらい幸福なものだったから、水の不味さが気にならなくなったと言ったら嘘になるけど、多少和らぎはしたように思う。

 

その友だちが恋人と電話をしていて、一人暮らしに何が必要かな?と聞かれ、友だちは熱帯魚、と思ったものの口にしなかった、のに、彼のほうが熱帯魚かな?と言って、同じこと考えてた、というエピソードをお風呂のなかで結構反芻した。

 

私も、前に好きだった人や友だちとそういう経験があるし、そのときのシンクロみたいなものって、内容がどんなにどうでもいいことでも単純に嬉しいものだと思う。

私が不思議に思うのは、そこに瞬間的な驚きは発生するけれど、意外とそのシンクロみたいなものが自分にとってしっくりくる事実であること。

わ、いままんまおんなじこと思ったよって言って笑い合うのに、どこかではそうなるような気がしていた、ような気もするのだ。

これはめちゃくちゃ感覚的なことだし、瞬間っていう単語が合っていないのかもしれない。

シンクロみたいなものと驚きが物凄く小さな差で発生するから、私の中で勝手にそうなるものだったのだと処理されてしまっているのかも。

きっとこれはシンクロみたいなものであってシンクロではない。広い選択肢の中から選んだ1つがたまたま相手と重なった偶然の誕生なのだと思う。意見が重なるのはめずらしいことじゃない。ただそれを、こちらが思っていてもあえて口にしなかったのに、相手に言われることで奇跡っぽさが生まれる。実際奇跡と言えないこともない。ただ私の中の奇跡の定義とは異なるけれどそんなの私以外の全員にとってどうでもいいこと。

 

ただ友だちが恋人とシンクロみたいになった言葉が、熱帯魚だったところにかなりセンスを感じる。一人暮らしに必要なのは熱帯魚だと思っていることが、ではなくて、文脈は無視して熱帯魚かな、がシンクロみたいになったことが。私が経験したことあるのはもっと抽象的だったり、具体的でも数字だったり、選択肢が3つくらいしかなくてその中のひとつだったりで、具体的かつ母数の多い中のひとつ、というのは記憶にない。あったらきっと覚えていると思う。

そしてバナナや椅子やクッションじゃなくて、熱帯魚。ぜったい必要ない。ふたりのセンスの一致かもしれない。けれどこのシンクロみたいな現象を、単にふたりの思考回路が似ているからで片付けてしまうのはもったいないし馬鹿っぽい気がする。

しかもこのシンクロみたいなものが起きるとき、相手のことは多分考えていない場合が多い。だからこそ驚きが発生する。お互いに相手だったらこう思うだろうな、という考えが無い状態で同じ答えが導き出されるところがロマンチックなのかもしれない。

さっき、不思議なのはちょっと驚くがしっくりくることだと言ったけれど、もしかしたら自分がこうだと考えているときに空白の予感が生まれるのかもしれない。空白の予感というのはいま考えた言葉だけれど、なんかあると思うけどなにがあんのかはわからん、みたいな漠然としているけれど小さな予感のことで、その空白が突如埋まったことに驚きはするものの、同時に埋まるべくして埋まったという感覚も得るからなんじゃなかろうか、、という迷想

 

とりあえず友だちが幸福であり続けますように。私は私で面白いことを探して生きていきたいです。