文字にすること

最近音楽を聴いている時、視覚とは切り離してその曲だけを聴くことと、MVを見ながら聴くことと、ライブで生の演奏、本人たちを目の前にして聴くことを比較した時、どれが最も音楽を純粋に聴いていると言えることができるのだろう、てなことを考える。もしアンケートをとったらライブが一番票を獲得するだろう。生とかライブとか接触可能性とかはなんだか重んじられる風潮があるし、超コンテンツ時代でオリジナルが無い、コピーばかりと言われる現代では、物事の一回性の価値は高まっているかもしれない。

関係ないかもしれないけれど、自分が音楽に対して「好きだ」と思うとき、その曲の何にそう思うのかと言えば、メロディーとかリズムとか、流れのようなものだ。その流れのようなものに共通項は見受けられない。あったとしても主観マックスすぎて自分ではわからないのだろう。だからその曲の歌詞だとか誰が演奏しているだとかは二の次になる。つまり私は音楽を、視覚とは切り離して選ぶ(選ぶという述語もなんだか現代っぽい、ストリーミング配信の産物っぽい)。

けれども歌だけ聴いてもイマイチだなと感じる歌も、MVの映像を見ながらだとなぜか最後まで見てしまうこともある。決して映像のクオリティが著しく高いとか、ストーリーが超面白いとかではないのに、だ。これは映像監督や制作会社とか、音楽以外の第三者が一番介入するものかもしれないが、アーティストの一つの作品提示の仕方ということに変わりがない。

ライブにはあまり行ったことがないのだけど、言葉にするとなんだか陳腐な感じがしてしまうがそれこそ迫力・熱量・勢い、他人同士が同じ場所に同じ目的で集まる異様な(いい意味で)一体感はそこにしか生まれ得ないものなんだろうと思う。

 

まあ当たり前のことではあるけれどどれにも良さがある。この中に順番をつけたいわけではないので答えが出ないことにはなんの不満もないのだけど、純粋に「聴く」という行為はどれなのか、もしくはこの選択肢の中には存在せず、BGMのように生活に溶け込んで「聴こえる」状態が純粋な行為なのか。前提として能動的に音楽を聴く時の話がしたいので聴こえる場合は排除して考えたい。

ライブの、言語化し難い雰囲気のようなもの、「やっぱ生が一番っしょ」みたいな感じは正直納得できない。他の聴き方にも、それに代わる長所があるからだ。

けれど改めて何がライブで優れているのかということを考えた時、それは音の再生不可能性、つまり、クオリティはさておき、録音されていないというところなんじゃなかろうか。

ストリーミングでもCDでもレコードでもMVでも、私たちは録音され編集された音を耳にしている。それが本物ではないってことでないし、洗練されていていてクオリティは高いはずだ。本物だけど、同じものを何回も聴ける。もちろんこれは利点でもある。けれど音の再現が不可能であることが、音として価値が高いんだとすれば、ライブは純粋に音楽を聴いていることに近いのかもしれない。

 

私は、音楽を「選ぶ」時には視覚と切り離している。けれど実際日常の中で聴くとき、私の視覚と耳から入ってくる音楽は切り離すことができない。高校生の時は夕暮れを見ながらバンプを聴いて泣きそうになったり、村上龍の『歌うクジラ』は宇宙っぽい話だったからtofubeatsの『水星』をずっとリピートして聴いていた。だから今でも水星を聴けばタナカアキラやヨシマツさんのことを思い出す。結局のところと音楽は(どちらがどちらにどう作用しているかは置いておいて)視覚と密接に結びついているものなのだと思う。そもそも音楽を作る過程で音が可視化されているのだから、切り離すなんて無理なのだ。

自分で書いておきながらまとまりがないと感じるけれど、なんにせよ思っていることを文字にするのはめちゃくちゃ気持ちいい行為だ。自分の中にためておくと、それしか考えられなくなる。文字にすることで次に考えたいことが見つかるし、文字にしていくうちに頭の中で考えているだけでは思いつかなかった言葉が生まれる。これは私に限った話かもしれないけれど。自己満足、自慰行為的と思う人がいたとしても、私は私のために文字に起こすことを多分死ぬまでやっていくのだ。!だって自分のために生きてるし。